『永い言い訳』西川美和(文藝春秋)
妻が死んだ。
これっぽっちも泣けなかった。
そこから愛しはじめた。
突然のバス事故で、妻を、母親を、失ったふたつの家族の再生の物語。
いる当たり前と、いない当たり前。
浮気相手を家に引き入れている際に、旅行中の妻の死亡連絡を受ける幸夫。
妻の弔い中もまったく涙を流さなかった幸夫が初めて泣いたのは、同じ境遇で母を亡くした家族との生活の中でだった。
「生きてるんだから、生きててよ」って、そんな簡単なもんかねと思うけど、案外そんなもんかもね。あのひとが居るから、くじけるわけにはいかんのだ、と思える「あのひと」が誰にとっても必要だ。生きて行くために、想うことの出来る存在が。つくづく思うよ。他者の無いところに人生なんて存在しないんだって。
人生は、他者だ。
ぼくにとって、死んだ君が今の今になって、「あのひと」になりつつあるような気もするよ。遅いかあー。
夫婦って、なんだろう。
うちの嫁さんはちゃんとしたひとだが、デカくはない。泣いたりわめいたり、バランスを崩したりは本人にはつらいだろうが、それだからこそ「小さな」ぼくは、どんなにガタが来ていてもまだ、家の中に自分の身の置き場があると感じている。
今年、友人の旦那様が亡くなったんです。
知り合いが亡くなったなんて連絡は初めてで、詳しくは書かないけど、とにかく驚いたし悲しかったし虚しかったし、そして、理由に腹が立った。
友人にも伝えたけど、わたしが抱いのは「ずるいよ」っていう感想でした。
先日、帰省した際にその友人と会って。
なんかね、残っていた手紙が「ロミオメール」だったんですって。この本とは逆ですが。
( [ ロミオメール ]って言葉を初めて知ったよ。今年の頭、[ 汁女 ]って妖怪かよって思った言葉も実在してびっくりしたなあ。)
だったらなおさら、他の方法はなかったのかなあって思っちゃったんだけど。
自分で思っていることと相手の感じていることって、きっと、ちぐはぐで間違いだらけ。セクハラやパワハラじゃないけど、相手が不快を感じていたり相手に我慢を強いていたら、それは自分が考えを多少なりとも改めなきゃいけないんだと思う。歩み寄らなきゃいけないんだと思う。相手が自分にとって大切なひとなら、なおさら。
だから、言葉なんてコミュニケーション方法があるんだろう。そのくせ上手く使いこなせてないひとがきっと多い。わたし然り、ね。(反省)
友人は、思っていたよりも元気そうに見えてほっとしました。
「そんな手紙貰ったからって訳じゃないけど、なんだかんだまだ好きなんだと思う」って、困ったように笑っていたのが印象的だった。
このひとのために、自分がちゃんと生きてなくちゃ駄目だ。
そんなふうに、夏子は思って欲しかったのだろうか。
(ちょっと違うけど、いちばんに浮かんだのはこの曲。)
上には、「伝える」ことって「お互いに歩み寄る」ことって大事!って書いたけど、あえて「伝えない」、「言わぬが花」の考えもあるとも思います。むずかしい。
EQの本も読んでみようかな。どうやって鍛えるんだろう。そもそも鍛えられるものなのかしら。用法・用量をお守り下さい。