=== memo ===

こつこつ読書感想文📝

『国境のない生き方』ヤマザキマリ(小学館)

テルマエ・ロマエの原作者、といったほうがぴんとくる方が多いのではないでしょうか。わたしもそうでした。

出口治明さんの本の一節に、こうあったんです。

もし、お金のことを考えるなかで自分の「楽しい」や「自由」がわからなかったら、ぜひ漫画家・ヤマザキマリさんの本やエッセイを読んでみてほしいと思います。

 その本のなかで、他の本のことはまったく書いていない。

この作家さんだけオススメするということは、それなりの理由があるんだろうなあ と思って手に取ったのですが・・・

 

もうね!また素晴らしい本に出会っちゃったよーー!

(ありがとうございます!)

1ページで、目に涙が。電車内で読み進めるのが大変でした。

北海道出身だし、わたしも子供の頃から本を読んできたから、重なる部分もあったのかもしれません。でも、それ以上に 眩しくて 眩しくて。

人間というのは、他の多くの動物と違って、本能と自然がもたらす知恵だけでは、社会の中で生きていくことはできません。後天的に身につける教養が我々にとって必須の栄養素となるわけですが、しかしその内容は、人によって、それぞれの個性や特性によって、異なってきます。

もう、もう、すごく自由だった。

わたしは何に怯えているんだろう!って、今までの生活が疑問に思えてくるくらい。

閉塞感を感じたら、とりあえず移動してみる。旅をしてみる。これは、私たちが生きて行くうえでも有効だと思います。

どこかに行けば、今抱えている問題が解決するとは思わないけど、自分が何にとらわれていたのかに気づくことはできる。

母が、愛車のクラウンを買ってきた時のことを、今でもよく覚えています。

妹と私が拾ってきた犬を乗せたら、ガソリンを満タンにして、すぐに出発です。一緒に旅をしていると、感激屋の母は私たちに向かって、いちいちこう言うのです。

「見てごらん、この景色。涙がでてくるでしょう」

そう言って本当に目をうるませている母を、子ども心に「かわいいなあ」と思って見ていたのですが、今思うとあれは本当に素晴らしい教育でした。

母は、生きるのが大好きな人。生きるのはこんなにも楽しいことなんだと身をもって私に教えてくれました。

お母さまのエピソードも本当に素敵。

キーボードを打ちながら、また涙がでそう!

「何かが始まる時って、面白いじゃない。新しいことに挑戦してみたかったの」というだけで、母は多くを語りません。言いたくないことは全部「忘れた」という人です。

81歳だし、明日死ぬかもわからないけど、いまだに「あら、素晴らしいじゃない」「もう、きれいね〜」って、しょっちゅう言ってる。

去年の冬、登別温泉に行ったんですが、車を走らせてたら、ちょうど夕暮れ時で海岸線が見えてきて、そうしたら「いやあ、素晴らしいね」って後ろの席に座っていた母が言うわけですよ。

「これを原動力に明日から働くぞー!」って。

ちょっと待って、ちょっと待って。81歳ですよね?働く?

「素晴らしいじゃない、もう、働くしかないわよ、もう」って、何?

 むちゃくちゃ素晴らしくないですか?!本当に。こんな気持ちのいいひとになりたい。

ところで、久しぶりにまじまじと字を見たけど、「素晴らしい」って漢字もいいですね。からっと。気持ちいいなあ。

 

明るい話ばかりではないんです。

貧困に喘いだ時代や、シリアのテロの話、中世の暗黒時代の話など、ご本人も「今の世の中を見回してみても、性善説より性悪説の方が正しい教育ではないかという気がします。」と書いているくらい、ヤマザキマリさんを構成する要素には暗い(っていうのは語弊があるけれど)ポジティブじゃない話も多くある。

けれど、「前向き」な要素しか感じないのは、なんかもう、「血」も関係あるのかなあ、なんて感じました。

「僕はラッキーなんだよ。人生は、自分がラッキーだと思うほど、楽しくなる」

祖父は、私に口癖のようにそう言っていました。思えばあの言葉は、どんな時代、どんな境遇に置かれようとも、自分のスタイルを貫いて生きた祖父の矜持でもあったのでしょう。

 

他にも、胸に留めておきたい一節が山ほどあって。

右へならえで流されるのではなく、本当にこれでいいのだろうか、立ち止まって、考えること。猜疑心をいうのは人間が真摯に生きようとした時に、その人を根本から突き動かすエネルギーになり得るのだと思います。

疑いもせず、丸ごと「信じる」という人間は 、足元をすくわれた途端、「裏切られた!」と言い出したりする。丸ごと「信じる」のは、ラクなのです。どんな結果が出ようと、相手に丸投げすればいいのですから。

やるべきことがあって、自分が志を持って生きているのなら、それで十分やっていけるというのが母の考え方でした。

「他人の目なんて気にしなくてもいい」というのは、子どもたちにもずっと言っていました。「他人の目に映る自分は、自分ではないのだから」と。

「私はそうは思わない」と言うことは、別に相手を否定することじゃない。納得したい、相手のこともきちんと理解したい。対話というものはそこから始まるものでしょう。結論を出す必要もない。自分ひとりでは思いもよらなかった考えに触れたり、触発されることで、そこから新しい展望が開けていく。

これ、わたしはシェアハウスに住むようになって学びました。

なんか「私はそう思わないな」って、否定になっちゃうんじゃないかな、相手の気分を損ねないかな、なんて、言いづらくないですか。わたしは言いづらかったんです。

だけど、友人に言われたとき、アレ、全然嫌じゃない!むしろ、信頼されている気がする!と思って。面白い発見でした。

 

人は社会的な生き物でもある。そういう中で人が押しつぶされることなく、その人本来の生き方をまっとうするには、どうしたらいいのか。

私は、その手立てのひとつが「教養を身につけること」ではないかと思っています。何かを矯正されそうになった時に、「でもこういう考え方もある」「まだ、こういう見方もできる」と、「ボーダー」を越えていく力。

あの競歩みたいな早歩きは、いつだって情熱に突き動かされるように生きてきた、うちの母の生き方そのものです。情熱は守ってくれますよ、その人を。つらいことから。どんな悲しみを寄せ付けないくらいの、ものすごい防護力で。うちの母を見てきたから間違いない。

わたしだけの一等星がほしいなあ。他の誰にも見えなくてもいい。

わたしだけの。それだけあったら、他になにもいらないくらいの。

なんてね。なんてね。

 

ヤマザキマリさんが勧められていた本や漫画や映画も見てみようっと。

 

94歳で亡くなったおじいさまが燃やせなかったエンリコ・カルーソーのレコード。お葬式でも流れたそう。確かに素晴らしい。


Enrico Caruso - O Sole Mio