2019-5-25に思うこと
前回書いたのは、スウェーデンに行く前だったのね。
冬のスウェーデン、とても素敵でした。友人が住んでいるボーデンは自然が豊かで、天気にも恵まれて、どこまでも白くて、しんとしていた。音楽も雑音に感じてしまう感じ。しんと静かなのをずっと味わっていたくなるような。
オーロラも魔法のようだった。夜空で、ゆらゆらと揺れて色が変わる帯。
あんなの見れるんだもん、神話も生まれるだろうし、奇跡だって信じられちゃうよ。
行ってよかった。
飛行機合計15時間、行きの2回目の乗り継ぎはつらすぎて半べそだったけど。
(帰りはストックホルムに1泊したので、全然つらくなかった)
日本に帰ってきて、街の広告の文字数とか情報量の多さに驚いて、そして少し安心した。生まれ育った国の親切丁寧なうるささよ!スウェーデンは目にも耳にも静かだったわあ。
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今日現在、休職5日目です。
自分でも、えー!!?って感じ。まだ、ぼんやりしてる。だから書いてる。
いやあ、まあ、前回のブログ読んでも解るけど、なかなかハードだったんですね、仕事。ぎりぎりこなせてる感じだった。
けれど、チームからベテランの方が抜け、その人から引き継いだ方も即抜け、自分だって半人前なのに、新人ふたりにトレーニングしながら、タスクもこなしながら、プロパーさんに怒られながら、休みの日もずーっと仕事のことを考えてて、なんなら休日に平日のために少し家でも作業していたら、来る月曜「適応障害で1ヶ月休職」との診断書を頂きました。ぎりぎりで走っていたら、パンクしました。
自分でもびっくりよ。
なんて軽い感じに書いているけれど、まったく軽くはなく、正直今もまだそれらの症状に引きずられている感じ。
休職になった経緯だけ書くと、先週末たまたま友人が来ていて、仕事しんどすぎる落ち着いたら辞める…なんて話をしていて、月曜の通勤中に不安感と倦怠感で吐きそうになり、友人にそのことを伝えると「それは大丈夫じゃないから休んだ方がいい!」とメッセージが来て、涙腺崩壊、途中下車したらさらに涙と震えが止まらなくなり、自分でも「これはおかしい。普通じゃない。」と気付き自社営業に泣きながら電話して休みを貰って、その足で心療内科を受診。(現場には、申し訳なくて自分では連絡ができなかった。反応がこわかった。)
その時は、休職なんてことは頭になく、この不安感や倦怠感が消える薬が貰えるのではないか?って思ってた。薬を飲んだら、不安感を払拭した強い自分になって、仕事に立ち向かえるのでは?って考えていた。
実は、その前の木曜日も頭では「仕事行かなきゃ、わたしが行かなきゃ仕事がまわらない、迷惑かけちゃう」って思いながらベッドから起き上がれないなんてことがあった。(その日は午前休を貰って、午後、どうにか出社した。会社のデスクに座ると、やるしかない!という気持ちになってなぜか大丈夫になる。)
先生曰く「心では、つらい・嫌だと思いながらも、頭と体でそれをこなしてる状態。一致していないから、そういう症状になった。」とのこと。
原因は明らかに仕事だから、薬よりもゆっくり休んで仕事のことを考えないようにしたらきっとよくなる、と、1ヶ月休職が必要との診断書を書きます、と言われた。
わたしとしては「え、診断書なんて代物、こんな一回の受診で貰っていいの?」だし(先生にもお伝えしたら、回数の問題ではなく早期対処が必要な状態だと)、「そもそも休めないよ!」という気持ち。
どうしよう、どうしようと思いながら、病院を出て、営業に連絡。実情を伝えた。
診断書って効力強いんですね。そのまま休職することとなりました。
あんなに「わたしが行かなきゃ」って思ってたのに。あっさり。そんなもんだよね。
で、今5日目。
まずは、なんでこんな風になってしまったんだろう?そして、どうしたら防げたんだろう?何を持って完治と呼べるんだろう?って、ぐるぐる考えている状態。
ちょっと整理させて。
1.なんでこんな風になってしまったんだろう?
先に挙げた以上はないのかもしれない。頼れるひとがいなくて(いないと思って)、ひとりで抱え込んでしまった。自由なはずなのに、思考は自由じゃなく、仕事に囚われてしまっていた。なんでも、自分でやらなきゃ!どうにかしなきゃ!絶対にやすめない!って常に緊張していた。
2.どうしたら防げたんだろう?
防げたことはふたつ。1.わたしのメンタル崩壊 2.業務担当者の不在
2-1.去年の時点で、アラートは挙げていた。その時に、アラートではなく退職の意を伝えていたら、自分もこのような状況にはならず、現場も引き継ぎをきちんとして抜けれたのかもしれない。
あと、SESって結局上司も他社の方だから、深く関わりがない。一緒に頑張ろう感はない。つらくても相談しづらかったし、そっちはそっちでどうにかして欲しいと思われている感じが常にあった。一緒に働くひとって大切だよね。毎日8時間以上一緒にいるんだもん。相性の問題かもしれないけどね。雑談とかできなかったもんなあ。そこで追い込まれていった感じもするな。
ああ、書いて気付きました。わたし、自社にも現場にも親身になって相談に乗ってくれるひとがいなかったし、作れなかったんだな。(これ、他の会社にいってもその点どうにかできないとまた同じこと繰り返しそう。SESは難しいかも。課題として心にメモ)
2-2.まったくの不在ではないのだけど。(新人ふたりを残して来てしまったので、それにはかなりの罪悪感がある。)
担当不在でも、他者がどうにかできる仕組みがあればよかった。
社内のシステムを外部委託しているわけだし、これからも色んなひとが関わっていくわけだから、どんな人でも均一にサービスを提供できるように整えたほうが効率的だと思う。これはわたしが来てからナレッジの整備を始めたので、先人がみなさんとても優秀だったのかもしれない。これを見ればどうにかなる!っていうマニュアルやナレッジがあるだけでも、精神的に違うと思うんですよね。結局はプログラムなんで、追えばどうにかなるけれど、膨大な量のプログラムで、解決までの時間は限られているから。ナレッジにない初めてのケースの場合、常に焦っていたなあ。
わたし、この1年弱、常に緊張して焦っていた。
2-1、2-2 改めてこうやって文章におこしてみると、結局、あんたの力不足じゃん。レベルとステージの不一致じゃん。もっとうまく立ち回れるひともいるよって思うんだけども。ああ、悔しいなあ。でも、戻りたくないなあ…!!!
そうなんです。この5日間、何回考えても、迷惑をかけている、とか新人さんを残して来てしまった、やりかけのタスクがある、とか、自分の責任感をこねくり回してみても、
「戻りたくない」
って気持ちだけは、はっきりしていて。「戻る」って考えただけで吐きそうになる。
わたし、仕事すきだったんだけどな。働くことがすきだった。だけど、今回ばかりはすきになれなかったみたい。作業内容も、ひとも。逃げかなあ。
3.何を持って完治と呼べるんだろう?
専門医じゃないから、わからん。以上。
休んでからは症状はでていない。ただ、こうやって現場のこととかを考えると、頭がぼんやり霧がたったみたいになる。考えたくないことなんだろうね。でも、失恋も長い期間ちまちま思い出すよりも、短い期間でたくさん考えたほうが後で引きずらないとか聞くし、この1ヶ月でうんうん思い悩みたい。あとは、今はとにかく一昨年自分でもよく書いていた「心と体を一致させること」を一番大切に過ごしたい。
好きや心地よいことを大切に。嫌悪感を抱くものは、その理由を自分のなかに探って。
すきだー!たのしい!って、また思える仕事をしたい。
しんどさも、それを乗り越えた時の万能感もまた味わえるような仕事をしたい。
病院に行った月曜、友人にこんな言葉をかけてもらったんですよね。
「大丈夫じゃない時は、大丈夫じゃないって言っていいんだよ!」って。おっしゃる通りなんだけど「あ、できてなかった」って気付いたの。
「大丈夫だよ」って声をかけてもらう安心感ってあるじゃない。わたしも「大丈夫」って自分に言い聞かせてこの数ヶ月どうにか走ってた。「大丈夫」「大丈夫」って呪文のように繰り返していたら、「大丈夫じゃない!」って言えずにパンクしたみたい。
みなさんも、お気をつけ下さい。暑いし、自律神経乱れがちだし。
途中リタイア、申し訳なくて悔しい限りなんだけど、このまま無理して走り続けていたらもっと重症を負っていたかもしれないし、転職したいと思っていた機会が早くやってきただけだ!って、失った未来のタラレバに囚われずにちょっとダラダラしつつ自分にとって気持ちのいいことを探していく所存。不安もあるけど。
変な責任感とプライドでがんじがらめになった感じもあるから、ちょっとそこは意識して抜いていこ。ふー。
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最近読んだ本(本を読めるこころの余裕がうれしい)、最近好きな音楽・YouTuberさんなど
本日、ソネングラスを買いました。わくわく。
2019/2/2に思うこと。
アレっ、年も明けて2月ですか。早いものですね。
本日は春のような日和です。窓からさす日光が気持ち良いです。
スウェーデンに行く前に思いつくことを書いておこうと開いたんだけど、テーマがないな。思いつくこと。パッパとな。
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今の現場のプロパーさんが怒鳴る話。
ナチュラルに「ばかなの?」とか言っちゃう方で。本人曰く「江戸っ子だから、つい」らしいんだけど、江戸っ子に失礼。
親しき仲にも礼儀あり!だし、親しくなかったらもっと気をつけなきゃいけなくない?!って思うんだよね。仕事仲間だぞ。
年度末で、そのひとともう同じ現場にいたくないってチームからひとり減るんだけど(三年もそのプロパーさんと働いていた)、
ミスした事柄以上の人間性まで馬鹿にされ続けていると、思考まで侵食されてるんじゃないかなって思って見てる。「できない自分」って思考になって、ミスがより増える。怒られない為に最低限の仕事して、でもやっぱり怒鳴られて。悪循環。
石の上にも三年。確かに、技術的な要素は三年もやればエキスパートとまではいかなくても、困らないくらいには身につく。だけど、三年かけて精神的にだめになるなんて、もったいないよ!…って、これは私の価値観だけど。拷問かよ。虐待かよ。自分をさげる人と一緒にいる価値なんてないよーーー!ってネットの片隅で叫ぶけど、そんなプロパーさんが楽しそうに同僚とランチをしている姿を見て、出会う場所とタイミングが悪かったのかな、とか、思ったりもしたンです。
そんなこと言ってもわたしは自分が可愛いので脱出計画を進めているところです。次、このブログを開く時には思い出になっているはず。
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恋人が可愛いので、ついつい「なんでそんな可愛い顔してるの?」とか言ってしまう。おっさまに、かわいい、かわいいって言って過ごしている。
幸せなことだ。時間が経てば「すき」も薄れていくものだと思っていたんだけど、日常にいる恋人は今のところそんな感じがないのだ。
初めの頃の、ドッキドキ!フェーズから、きゅんきゅんフェーズに移行した感じだ。素敵なんですよ、うちの恋人。ふふふ。
なんてね。明日には、わからないけれど。だから今日、愛でておかないと。
そういえば、PMSかな?と思っていた急に「さみしい!!!!」ってなったやつ、鉄分系サプリメント飲み始めたら最近ないな。
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三十路過ぎて結婚もせず自由に過ごしていると、たまに地元に帰った時の友人の話題に驚いたりする。
結婚して、子供産んで、なんならDV受けたり浮気されたり浮気したりで離婚して。※幸せそうに暮らしてるこもたくさんいるよ。
人生ゲームだとすると、ものすごい差がついちゃったね!って感じ。無い物ねだりなんだろうなあ。
わたしの今の目標は、恋人と年に3ヶ月くらい海外で暮らす生活を繰り返すことで(夢って書いちゃうとあやふやに諦めそうだから目標と書いておく。)、そんなこと言うときっと地元の友達にはだいたい「すごいね!(信じられない!)」と言われ、シェアハウスの友人には「いーじゃん!(方法も色々考えてくれる)」って反応をもらうんだろうな。
身を置いた場所による、今のところの結果がこんな感じ。
さて、これから10年後はどうなってるんだろう。身を置く場所って、大切だよね。書きながら今改めて思いました。ちゃんちゃん。
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最近読んだ本や漫画。
自分がしたいことを、ストレスを感じずに意識しないでも継続できるようになったら最強の自分になれそうだな、と。そのためには、することのハードルを下げることが必要と読んで部屋の物の配置を色々と変えました。
まだ、身になっていない・・・
あまりの面白さにアドレナリン吹き出た。
原作版は読んでいないのですが、つづき読みたさに手を出しそうに。うずうず。
面白すぎるものに出会うと感謝の気持ちが芽生えますよね。いやあ、本当にこんな面白いもの作ってくれてありがとうございます!!!!!
天才になれなかった全てのひとへ。
題名が衝撃的なんだけど、レズとか風俗うんぬんの前に、自己肯定感の低い方におすすめ。自分と仲良くいることの難しさを思うよ。自分なのに、自分のことを知らないひとが多いんだろうなって。
自分に優しくも厳しくもできて、やっと、他人とも深く関わっていけるんじゃないかな、と。
ソーキューーート!英語で言っちゃうくらいかわいい!
イラストのゆるさもすごく好きなんだけど、効果音もまたいいんです。
最近はスタンプもほぼナガノさん使用です。すき・・・
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以上!
パッキングをサボって書いていたので、パッキングのつづきに戻るぞ。
いざ、生活!
2018-09-09に思うこと。
この度の胆振東部地震で被災した方、お見舞い申し上げます。また、犠牲者となった方に心よりお悔やみ申し上げます。
かくいうわたしも、地元札幌に帰省していました。こわかったですよね。わたしよりもこわい思いをしているひともいるだろうし、言っちゃいけない気がしていたけど、本当にこわかった。
その前後含めわたしの生活において忘れちゃいけない期間な気がして、こうしてまた久しぶりに書いています。すぐ忘れちゃうから。
初めに、ご家族や自分の身のほうが大切でしょうに、当日の朝から交通整備をして下さっていた警察の方や、全戸停電には驚いたけど、夕方には一部といえ復旧してくれたほくでん含め電気設備関係のお仕事の方、他にもお店を開けてくれた方、炊き出しをして下さった方、タクシーを相乗りして下さった方、世のため、北海道のため、隣人のために考えて行動して下さった方に感謝します。
こわかったけれど、そういった場面に出会う度に、ああ、自分も沈んでばかりいられないなという気持ちになれました。
なんでそんなことすんの?!って思っちゃうような嫌〜な奴もいるよね。でも、そんなひとばっかじゃないよね。嫌なひとのほうが目立っちゃうだけ。人類皆善人説で生きたいモンですね。
以下は、自分のために箇条書き程度につれづれと。
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8/30
癌が転移していてもう永くない父を見舞うために帰省。
地元に着くと同時に病院に向かい母と共に担当医師の話を聞く。
「緩和ケア」の認識が違っていた。「治療」をするところではなく、近づく死を苦しまず迎えるためのケア。医師曰く父はいつ逝ってしまってもおかしくない状況とのこと。母が何か食事することはできないものかと(くいしんぼ家族)相談すると、ジュースなど舌で少し味わえる程度のものなら、と許可を頂く。
会話もできなくなっていると母に聞いていた。しかし、父に「コーラとアイスどっちがいい?」と聞くと「コーラ」とふりしぼったような声で教えてくれた。
看護師さんに手伝って頂き、コーラを染み込ませたスポンジを舌につけた。味はしたのだろうか、感想などはわからないし、もっと早くできていれば父の楽しみも増えたのだろうか、と後悔ばかり浮かぶ。
母の意見によりその日から病院の別室に泊まらせて頂くことにする。
準備を何もしていなかったため、母に残ってもらいわたしだけ荷物を取りにいった。お弁当屋さんで夜ごはんも買った。
病院に向かうバスを待っていると、母からタクシーで来るように連絡が来た。
「息が急に止まった。」と。
タクシーで向かった時には、もう父は息をしていなかった。高熱がずっと続いていた為熱かった体温も生温くなっていた。
あの時、荷物を取りに行かなければよかったのだろうか。ただ、母が立ち会えたことと、わたしがその日いたことはタイミングは良かったというか、看護師さん初め色々な方に「待っていたんだね。」と声をかけて頂いたが、本当にそうだったのかもしれない。
母が後で言っていたのは、前日に叔母が父に「お兄さん、今までよく頑張ってくれましたね。もう無理はしないでもいいんですよ。」というような声かけを行ったそうだ。もしかしたら、張っていた気持ちが緩んだのかもしれない。
全て残ったひとたちの想像だけれども。
葬儀の準備は事前にしてあった。当直医に死亡診断書を書いて頂いて、看護師さんに体をきれいにして頂いている間に買ったお弁当を食べた。
食べることは生きること。
今年ハマっていたドラマ「アンナチュラル」で解剖医のミコトが仕事前にカツ丼をよく食べていたのを思い出した。お弁当を食べていいものか迷っていたら、母が「生きているひとはまだやらなきゃいけないことがあるから、活力つけないとね。」と言った。揚げ物ばかりのお弁当は半分食べたら満腹になった。
最期のほう父は食事ができず最低限の栄養をチューブで体に送りこんでいた。医師に体の負担になるからと次の日からはもっと量を減らすと言われていた。
悲しいけれど、さみしいけれど、食事を楽しめるのは健康で元気なひとだけなのだと思った。
一通り病院での手続きが終わり、葬儀屋さんに迎えに来て貰った。
湯灌師・納棺師という職業があることを知った。母方の叔父・叔母が駆けつけてくれた。
8/31
お通夜。急だし家族だけでも仕方ないよね、と話していたが遠方の親戚(父の兄妹)も来てくれた。お線香の匂いに酔ってしまい朝から気分が悪かったが、薬を貰い少し寝て復活。父はお棺に入った姿をみた女性陣に「やっぱり美男子ね〜」と言われ、母が「一目惚れしたくらいですから」返していた。パパ、よかったね。
お通夜後、食事中に叔父叔母のお孫ちゃん達が来た。
よくわかっていなかっただろうけど、一方は「ありがとう〜」を上手に使う品の良いおっとりした兄妹、一方は天真爛漫・元気な兄弟で場が和んだ。
9/1
火葬。少人数だろうしと告別式は行わなかった。待っている間父の兄妹に「父はどんな子供でしたか?」と聞いた。父は寡黙だった。わたしは父の口から子供時代のことなんて聞いたことが全然なかった。
「冬は毎年かまくらつくっていたよ」叔母(父の妹)が教えてくれた。
わたしも子供の頃毎年作ってもらっていた。家の前の公園に、立派なかまくら。窓をつけたり、テーブルをおいたり。一度、ゆきだるま型にしようとして失敗した。自分の子供のころ得意だったことをわたしにもくれていたんだと胸が熱くなった。母の弟(叔父)にも母の子供の頃のエピソードを聞けたり、個人的にこの数日間は兄弟からみた両親の人となりを知れたよい期間だった。
9/2~9/5
9/2に関東に戻る予定を忌引きで延長し、父が亡くなった手続きをしたり、友人に会ったり。手続きは、同じ区役所内で色々な部署をぐるぐると。年金事務所にも行かなきゃ行けず2日がかりで母と回った。1個ですまないものかね〜と何度も思う面倒さ。ひとが亡くなったのだから、サクッと終わっちゃいかんのかな。生活の重みなのかな。いやあ、でも、なんだかねと思ってしまうよ。地震の前に一通り終えられて良かった。漏れがないか心配。
9/6 AM3:00頃
深夜にグラっと来た時寝惚けた頭で(震度3くらいかな…)と思った途端、ドン!と突き上げるような大きい振動が来た。思わず「ひゃー!」と声が出た。
少し揺れが収まった時に飛び起きて母の部屋が近いリビングに向かった。無事。父のお骨を抱えようとした時に女性の声が聞こえた。わたしも母も混乱していたため「隣の家かな?」と話していたが、よく耳をすませるとラジオの音。防災用のラジオの電源が自動についていたのだ。停電で暗い中手探りでラジオを探し、玄関に移動。玄関に一通りの防災グッズが揃っていたため、ランタンを出しラジオを聞きながら外が明るくなるまで玄関で過ごした。
(今回のような防災用のラジオとか、停電時に自動でつく持ち出しできる明かりはあった方が不安が軽減されるかも。教訓。)
停電の為テレビが見れない。ラジオでは被害が大きい地域があると言っている。SNSもそう。当たり前だけど、被害がないことは報道されないから何を見ても不安が募るばかりだった。
午前中に飛行機を取っていたが、もちろん欠航。だめだったらまた伸ばせばいいだけだと考え次の日の夕方に振り替えた。
家の隣がコンビニのため、ひとがいる気配を感じて行ってみる。
外に出ると、大きい道路では信号機が消えているため警察官が立っている。車の数も多い。みんな自宅待機じゃないんだな、とぼんやり思った。
コンビニの中は、電気がつかない為薄暗い中レジまでずらっと見たことがないような行列。全員かごいっぱいに水や食料を入れていた。お弁当・おにぎり・パン・カップ麺など手軽に食べられるものはもう無かった。
家には葬儀時に親戚にお土産として貰ったものなど食料はたくさんあった。電気がつかないだけで、水とガスも使えたし。本震が来たらどうしようというこわさはあったが、にゅうめんを茹でて前日の残りの帆立を出汁代わりに入れて食べた。
このまま停電が数日つづくとまずいのは電池の消耗だった。
ラジオやランタンなどの機器は全て電池。しかも単3ばかり。単3の予備が2〜3本だったので、14時頃から近所の空いてそうなコンビニやスーパーへ歩いていった。(携帯のバッテリーは、わたしが容量の大きい物を持っていた&前日にフル充電していた)
同じようなひとがたくさんいた。自転車などで数か所回ったんだろう。
回ったお店は全て「バッテリー・電池は完売です」と張り紙があった。全戸停電だもん、みんな考えることは一緒だよね。
家の中だと電波が全然繋がらなかった携帯電話も外だとよく繋がった。恋人が便乗して休みを取っていたので電話してみた。まめに連絡していたし、その時は繋がらなかったけど。被災していない地域に知り合いがいると、調べ物とかして貰う時に助かった。
暗くなる前に帰宅し、いつもより早めの夜ごはんを食べた。
冷凍のごはんに水を足して蒸したごはんの炒飯。炒飯というより雑炊より。ひじき、じゃこ、ごま、卵、枝豆。あと、お味噌汁。
母が去年のハロウィンの時に買ったというかぼちゃのランタンを出してきた。単4電池使用だし、と。まぬけなランタン。ばかにして笑って、ランタンのお陰でこれからくる停電の夜が少し明るくなった気がした。暗いし、ごはんも済ませたし、ラジオを聞くくらいしかすることがなかった。「星がきれいに見えるかもね。」なんて話していた。
発火を防ぐ為に全てブレーカーを落としていたから気付くのが遅くなかったが、隣のコンビニの看板がつき停電から復旧したことに気付いた。
電気がつき、テレビをつけた時の安心感ったら。思わず供物のジュースで乾杯した。パパ、ごめん。
テレビから被害の大きい地域の映像が流れる。現実味が増してくる。
その日はラジオと照明の小玉をつけっぱなしにしてリビングに家族で並んで寝た。
9/7
飛行機は午後から飛ぶらしい。JRも午後から動くらしい。母のことは心配だったが「帰れそうなら帰っておいたほうがいい」という結論になった。
15時半の飛行機。念のためタクシーで向かおうと10時に最寄駅のタクシー乗り場にひとり向かった。1時間待っても数組しか進まない。
同じように空港に向かおうとしているひと、バスも動いていないため買い物袋を抱えたひと、足腰の悪いひと、色々なひとがタクシーを待っていた。ひとりになったからかもしれないが、被災後、その時が一番不安だった。泣きそうだった。少し吐き出して落ち着こうと思ってツイッターに書いた。(あとで、他の被災者の方々が前向きで恥ずかしくなって消したんだけど。)
運良く11時半頃空港に行く人に相乗りさせて貰ってタクシーに乗れた。
一緒に乗ったひとのご実家はまだ電気が復旧していないようだった。もうひとりの大学生は諦めきれずに以前から予定していた旅行を決行するらしい。タクシーの中は賑やかだった。初対面なのに。こんな時なのに。こんな時だから、同じ経験を全員したからなのか。
空港は混雑していた。椅子も空いておらず床に座っているひとばかりだった。案の定、お店は何も空いていない。買えるものは自動販売機のジュースしかなかった。
母に到着の電話して、床に座って母がにぎってくれたおにぎりを食べた。鮭と昆布入り。形の悪いおにぎり。隣に座っていた人が電話で電話越しのひとに、レンタカーとタクシーを乗り継いでどうにか空港に来たこと、どのお店も食べ物がなく昨日の夕方にカップ麺を食べたきりだということを話していた。旅行で来たのだろうか、もう北海道に来たくないと思われるのは嫌だな、と思い持っていたチーズをあげた。会話の内容が聞こえたのと、隣になったご縁だと。そのひとはチーズをもりもりすごい勢いで食べ終えた。知床に行って来たらしい。もっと何か食べ物を持っていたらよかったのだけど。
飛行機に乗って空港につくまでずっと不安だった。隣の席の外国人カップルはずっと手を繋いでいた。
帰省するまではしんどかった暑さも湿度も着いたら懐かしかった。電車が動いていることが嬉しかった。ひさしぶりの我が家では、恋人が世話してくれた植物たちが青々としていた。
恋人が帰ってくるまで1時間くらいあった。炊飯器で白いごはん(普段は玄米ミックスなんだけど)を炊いた。日常に戻りたかった。
まだ2日しか経っていないけれど、
NHKのニュースばかりみてしまうし、防災速報で地震の通知が来る度に震度を確認してしまうし、防災グッズのチェックばかりしている。
取り残されているのはどうやらわたしだけみたいで、北海道にいる母や友人からはほとんど日常に戻ったよ、と連絡が来た。
これ以上何もなく普通の毎日がつづきますように。
さて。明日から、仕事に復帰します。ぎゅっと濃いお休みだったなあ。
ダーっと勢いだけで書き上げてしまいました。おやすみなさい。