『よろこびの歌』宮下奈都(実業之日本社)
面白かったーーー!
わたしは、おんなのこの成長物語に弱い。
歌だけが素晴らしいなんてことはない。人格者でなければ歌えないわけでもない。私みたいな女子高生にも歌うことができる。
それが誰かの胸に届くかどうか、届いたとしたら、どんなふうに響いてその人の胸を揺さぶることができるか。それを知りたい。揺さぶるのが目的なんじゃない。
でも、私の歌を聴いた人の胸が揺さぶられたらどきどきするだろう。勝手に揺さぶられてよ、というのとは違う。だって、みるみるうちに顔が赤く染まったり、思わず笑顔になったり、逆に目に涙をためたり、呆気に取られたりしている人の顔を見るのはすごく励まされる。そう、励まされるのだ。私の歌がすごいんじゃない。私の歌で誰かのどこかを揺さぶる、つまり誰かのどこかに揺さぶられるものがある、ということに希望を感じる。胸が震える。うれしいとか、楽しいとか、悲しいとか、さびしいとか、いろんな気持ちをみんなが抱えている。歌によって共有することができる。
ここにいる2Bのみんなで歌う『麗しのマドンナ』が誰のどこにどんなふうに届くのか、わからない。それを考えるのは私たちじゃない。受け取る人の、自由だ。
講堂の端で待っている浅原に「よくやった」なんていわれたくない。いわせない。
言葉を失え。私たちの歌を聴け。
引用が長くなっちゃった。
途中で区切れなかった、まるっと大好きなシーン。
受かると思い込んでいた音大付属高校の受験に失敗した「御木元 玲」が、「あきらめて」入学した新設の女子校。
夢に惑うおんなのこ達が、出会い、合唱コンクール、そして、うた をきっかけにそれぞれ何かを掴み成長していく物語。
「いい?未来の自分を思い浮かべるの。あたしたちの歌を聴いてくれるのは未来の自分だって。今のあたしたちはこんな『麗しのマドンナ』だよって見てもらおう」
ザ・ハイロウズの七つのうたのタイトルと共に。
『もういちど生まれる』朝井リョウ(幻冬舎)
もうすぐ二十歳なんだからさ、と思いながら、オレは携帯のロックを外す。どうせ普通の企業に就職しなきゃいけなくなるんだよ。結局は、自分が休んでも代わりが務められるような仕事に就くことになる。そこで四十年近く働くんだ、たまに有給うまく使いながら。多分昼は五百円弁当で。
オレだってそうだよ。プライドなんて、持たないでいたらこんなにも楽なんだ。
それでも、どうしてだろう。そんなことを思うたび、辛いものでも食べたように、舌がぴりっと痛む。
「二十歳」
年齢だけが大人になってしまう。
それぞれ「二十歳」の主人公たちが、それぞれの出来事を通して「変わってしまう」短編集。
「さっきのシーンさ」
「自殺のシーンっていうよりも」
「この世界に生まれ落ちたみたいだったよ」
「もういちど生まれたみたいだった」
「変わったのは、僕自身だ」
Base Ball Bear - 新呼吸 at NIPPON BUDOKAN from 2nd LIVE DVD
「あたらしい朝がくれば 僕は変われるのかなあ」
「変わり続ける君を、変わらず見ていたいよ」
読んでる間中、BaseBallBearの曲がずっと頭の中で鳴っていました。
どちらも眩しく瑞々しい。
『かかわり方のまなび方』西村佳哲(ちくま文庫)
副題に「ワークショップとファシリテーションの現場から」とあるように、ファシリテーション、コーチング、ワークショップなどをされてる方たちのインタビューや講演などを書籍化したもの。
以前住んでいたシェアハウスのお姉さんに勧められて手に取ったのですが、とても感想を書きづらいです。
わたしがこの本にあるようなワークショップを受けたことがないから、というのもあるし、ひとりひとり読んで感じることや考えることが違うだろう、とも思うから。
自己啓発本にありがちな「こうあるべき」「こうなるべき」「自己変革することで世界は変わる」というように押し付けがましいことはなく、
むしろ「自己一致」のことを丁寧に掘り下げられている本だとわたしは感じました。
「わたしは、わたしになりたい。」
なにそれ?あなたはあなたでしょ、って言われるかも知れないけど、
これ、わたしの今年のテーマなんです。
自分がサービス業出身だからなのかもしれないですが、例えば会社の研修で「相手がしてほしいように相手に接する」とか習って来たんですよ。間違っていない。正論です。
ただ、そういうことを「地図」としないで、そのまま まるっと自分の考え無しに実行していたら、いつの間にか自分の頭と心の距離ができている気がして。
前回LINEスタンプのくだりで書いた「大人になるってことは、どこか諦めることだと思ってた。」もまさにそういうことだと。
「 i 」がないとメッセージは一般論になる。「人を殺しちゃいけないんだよ」と「自分は人を殺したくない」では、後者のほうが伝わるし健やかだ。それは反論というか、やり取りが可能だから。「 i 」が表明されていれば「あなたはそう思うんだね。でも私はそう思わないな」と、互いの居所からかかわり合うことが出来る。つまりコミュニケーションが成立する。
主語のないメッセージは語る本人は楽かもしれない。
その辺に転がっていた誰かの見解や常識を拾ってひょいと投げるようなもので、球そのものに自分が入っていない分、責任を意識せず放つことが出来る。
この本を教えてくれたお姉さんと話すとなぜかいつも自分でも忘れていたようなことがすこーんとでてきてびっくりすることがあります。
多分それは、この本にあるようにお姉さんが「自己一致」しているからなんだろうな。
この前も送別会で行ったはずなのに、ライブラリーでお姉さんをみつけ、気付いたら2時間くらいふたりでずっと話していました。わたしは置き去りにしていたことがなんと多いのか。
「人はある条件が揃いさえすれば、自分が進む道筋を自分自信で見つけ出していく能力を持っている」ことを確信していった。目の前で話に耳を傾ける人に「共感」「無条件の肯定的尊重」「自己一致」の三条件あれば。
「こうあるべき」なんて本当はないんだよね。そこに意志があれば。「わたしはわたし」なんだから。
ぜひ、ワークショップにも参加してみたいし、この本も定期的に読み見返したいな。